教育制度改革案のコメントで薦められた選択理論、それを学校教育に応用する方法を解説したクォリティ・スクール 生徒に人間性を 読了しました。
端的に言ってしまうと事前にネットから得た断片的な情報から想像した通りの内容で、コメント欄で「おそらく夢物語としか思えません」と書いたとおりの感想しか出てきません。当然、この本を読んだことによって私の教育制度改革案の記事を変更する必要も全く感じませんでした。
以下、簡単にクォリティ・スクールの内容を紹介しながら、その理由を述べたいと思います。
クォリティ・スクールで繰り返し述べられているのは生徒の行動を強制しないことです。口うるさい親や教師に勉強しなさいと言われれば反抗期まっただ中の学生の場合、特に勉強が嫌いでなくても嫌いになるのは当たり前の事で、これに関しては私も全く同意見です。 (前回の改革案冒頭で体罰について語っていたのは古い教育体制を維持するにはそれが必要であったという事であって、私の新しく提案した方法ではそんなものは全く必要ないことが少し考えればわかるでしょう。そもそも学生に強制する事がありませんから)
しかし、学校である以上、生徒に勉強させないと存在の意味がありません。そこでクォリティ・スクールは強制ではなく、生徒にどのようにすればよいか提案してもらい、納得してもらう という手法を用いれば良いと主張します。そして、勉強を好きになってもらうために(なぜかクォリティ・スクール内ではこの好きであることに上質(=クォリティ)世界という言葉を使います)教師が生徒に命令することを禁じ、生徒と同じ目線で語り合える友達になることを要求します。教師はその勉強が生徒の将来にとって如何に役に立ち、魅力的かを説明します。その後生徒を少数のグループに分け、学習内容について話し合いや共同での解決の場を持たせますが、教師は手伝いをする立場に留め、その目標に対し明確な正解は与えません。人は生得的に良いものを判断する能力を持っている(この良いものもクォリティ・スクールでは上質と呼びます。はっきり言わせてもらえば、2つの異なる重要な概念に同じ単語を使うのは頭悪すぎです)と考え、その達成についてもある程度生徒に判断させます。このようにすることでこの小グループは野球のチームのようになり、その中で自分が役割を持つことが欲求充足となり、勉強をその生徒の上質世界(勉強を好きになる)事に繋がると主張します。
本の中で具体的な例として代数を教える場面が挙げられています。
「リード・マネージメントする教師は、初めに代数について説明し、代数を学ぶ理由は何か、実生活の中でどのように役立つかを説明する。もしビデオテープでもあれば、いろいろな違った文化の中で成功している人が、生活の中で代数をどう役立てているか、なぜ学習する価値があるかを、生徒に見てもらう。リード・マネジメントをする教師は、生徒に、だれでも努力さえすれば代数を立派に学ぶことができると話す。
生徒の質問に直ちに答えた後で、教師は、共同学習の小グループ(とても欲求充足のできる教え方)で、お互いに助け合いながら勉強すると説明する。教師は、各グループに少なくとも一人の有能な生徒をリーダーとしてつけ、彼らがグループのメンバーに問題解決の技術を教えられるようにする。ただ問題を解くだけでなく、みんなが代数を理解することがグループの目的である、と教師は説明する。学校は、教師全員が共同学習をうまく使えるように訓練する。
教師は、テストの時期を生徒に決めさせる。本番のテストの前にはいつでも模擬テストがあって、その結果に基づいて本番のテストは作られる。テストでよくやった生徒は、さらに先に進む。よくできなかった生徒は、完全な理解をするまでそのテストに出た問題領域に取り組む機会が与えられる。理解することとクォリティの維持が大切なのだ。時間は問題ではない。クォリティ・スクールの理想はこうだ……やる気のある生徒は、学ぶのに必要な時間がないと心配する必要はない。つまり、これまで学んだことをよく理解したことを示すまでは、だれも、新しい領域に進まなくてよいのだ。」( 「クォリティ・スクール」 ウィリアム・グラッサー 著 柿谷正期 訳 ISBN4-377-40998-0)
こうやって聞いてみると良いことばかりのようです。
しかし、本当にそうでしょうか?次は、この手法の問題点を考えてみたいと思います。
まず、教師は代数がどのように役に立つかを生徒に教えるとありますが、プログラマや数学を用いる学問の学者ならばともかく、フットボール選手を目指す生徒に対し、代数を勉強させる納得のいく理由を説明できるとは思えません。 (代数を勉強することはプログラマのように直接それを使う以外の人にとっても、抽象的な概念を頭の中で操る訓練として、日常的にも非常に有用なものですが、そんな説得が生徒に通じるとはとても思えません)結局、納得できなかった生徒は無用な勉強をしなければならない不合理について、さらに確信を深めることになるでしょう。
次に小グループで助け合いながら勉強し、グループ内のすべての生徒が課題について理解するまで続けるとありますが、これはグループ内で平均的な能力を持った平凡な生徒にとっては確かに心地よい手法でしょう。しかし、飛び抜けて出来る生徒にとってはどうでしょうか?教えても理解しない周囲の仲間にいら立ち、自分はこんなところにいて時間を無駄にしているとしか感じないでしょう。特に、飛び抜けて能力の低い生徒にとってはこのグループ制は地獄です。みんなはすでに理解しているのに自分だけは理解できずのけ者になり、無能の烙印を押され、足手まといと蔑まれ、自分はこの学校に必要ない、むしろいない方がマシな存在だと思うようになるでしょう。これがキッカケでいじめが始まるのも時間の問題です。
さらに上質の概念を支える、人は生得的に良いものを判断する能力を持っているので、生徒のグループに任せてもうまくいくという前提も簡単にいくらでも反例が思い浮かびます。ピカソの絵画の芸術的な価値を理解できる生徒がいるでしょうか?古くは地動説から、哲学、相対性理論、不確定性原理など、無知な人の直感ほど、真理から目を逸らせ、危険で信頼できないものはないという事など少し考えれば解ることです。これらの価値を保証するには、その分野についてレベルの高い人だけの権威的な集団を社会が保護し、無知蒙昧な大衆の批判を受けないようにしなければなりません。レベルの低い大衆は圧倒的多数なため、それらが正しい学問であっても、その価値を理解しない人々に軽視され有用性を認められず、自然のままでは社会的に抹殺されてしまうのです。ただでさえ現代社会は市場経済の力が強くなりすぎ、沢山の人にものを売るためにレベルの低い大衆に受けるものが礼賛される傾向が強く、エンターテイメント性の高いものはともかく、アカデミックなものは特にレベルの高いものほど売れないため軽視されていく傾向にあります。これら理解されにくい学問を保護し、その価値を生徒に理解させるためには、レベルの低い生徒側に迎合するような上質を信頼する教育方針を採るべきではありません。
本の中ではグループ内で出来る生徒と出来ない生徒をできるだけ早期に見分け、出来る生徒は代数を1年で習得するコースに、出来ない生徒は2年かけてゆっくり…という風に補足されているため、私が指摘したような問題が実際頻繁に発生しているのだろうと想像されます。これほど明確に問題が発生しているのに何故その考えを改めようとしないのでしょうか?それはこの本の著者がコミュニタリアン(共同体主義者)である事が原因だと感じられます。上質の概念など、グループ・共同体で考えれば何でもうまくいくと考える傾向にもそれが現れています。とにかく、共同体で社会的承認を得られる事が人間にとって最も幸せであるという自分の盲信を証明したくてしたくてしょうがないのです。
そのためにはたとえどんな問題が起きてもそれは教師が未熟なせいだったり、生徒の出来が悪かったりしたせいであって、自分の考えた共同体主義的システムに欠陥があるためだという事を認めるわけにはいかないのです。クォリティ・スクールの実現のためには、生徒に勉強を強制せず、自分から進んで勉強しようと思わせるような面白い授業、面白く生徒に好かれる個性を持った教師を育てる必要があり、その訓練が最も困難だという事は著者自身も認めています。しかし、どう考えてもそんな教師を大量に用意できる効果的な方法があるとは思えません。ただでさえ教師はその分野についてそれなりに高い能力を持つ事が要求されます。そして一度採用されたら、あなたは生徒に好かれる性格を持っていないなどという理由で(私立学校ならともかく)解雇するなど考えられないことです。性格を変えろという要求は、他人に要求する事柄の中でも、およそ最も困難でその人の人格・尊厳を無視した発言と言えるでしょう。こんな事を言い出す著者が心理学者であるという事実に、むしろ驚愕させられるばかりです。
私が何の根拠もなくこんな事を言っているように思われるかもしれませんが、根拠はこの中にすでにあります。最初のコメント内でこのリンク先の文章を見たとき、失笑しました。そのため、発言者がクォリティ・スクールについて肯定的な意見を持っていて、それを知るように私に薦めているとはとても思えず、むしろ「こんなこと言ってる人たちもいますよ」という発言は「こんな(あなたと同じくらい馬鹿なことを)言っている人たちもいますよ」と揶揄されているのだろうと理解したわけです。(そのため最初の発言では本を読もうとはしなかった)その根拠は説明するまでもないとは思いますが一応説明しておくと、「クォリティ・スクールと認められるにはGQSという基準をクリアする必要がある」という部分です。少なくとも200校以上がクォリティ・スクールを目指していて、10校しか基準に満たないって…これではクォリティ・スクールの理論が、現実には殆ど不可能な要求をしていることを自ら認めているようなものです。
なぜこのような馬鹿げた事が起きるのでしょうか。それには確かに前述したとおり著者のコミュニタリアニズムへの傾倒が1つに考えられますが、少し視点を変えると著者は他人(特に教師)に自分と同じような能力と思想的傾向を要求していることが見えてきます。要するにみんなが自分と同じように考え、自分と同じように行動し、自分と同じような能力を持てば、世の中よくなるという思想です。世の中が自分と同じような人ばかりになれば世界は平和になるというのは一神教・カルト宗教などを信じる視野狭窄な集団によく見られる特徴です。実際すべての人が同じ宗教を信じ、同じ言葉を話し、同じ価値観を持てば、大抵の宗教で世界は平和になるでしょうが、そんな事は不可能です。これほど他者を無視した考え方もないのに、独善的な価値観を持った人々にはそれが理解できません。なんにせよこの本の著者のような人物の甘言にコロリとダマされて信じるような人は、カルト宗教やアムウェイのようなマルチ商法にはまらないように気をつけた方が良いでしょう。
しかし人はさまざまです。コミュニタリアニズムの考え方が絶対に受け入れられない人も半数くらいは存在するでしょう。著者のように行動することに価値を見出せない人も半数はいるでしょうし、著者のようなコミュニケーション能力を持たない人も、どう少なく見積もっても半数以上はいるでしょう。そうすると単純計算で著者がシステムで想定しているような人は1/2の三乗で全体の1/8しか居ないことになります。
結論として、社会全体に適用するシステムを考える場合、そのシステムを構成する人に対しては何らイデオロギー的なものを要求してはならず、特定の職業に要求する能力についても、試験などで客観的に判断できるもの以外は求めてはならないことがわかります。この前提を踏まえていないシステムは必ず自壊します。(例えば共産主義は人に利己心を捨て去り、尊厳だけで行動する事を要求します。圧倒的多数の通常人は利己的にしか行動しないため、共産主義は早晩その理想とは全くかけ離れたものとなり、瓦解します。ただ、長期間これに似たシステムを維持し成功させた例もありますが、それにはあるトリックが必要です。この興味深いシステムについては少し長くなるのでまた別の記事で述べます)
社会全体に適用するシステムで利用し、また要求できるのは、以前にも少し触れましたが「命、地位、金」この3つへの服従を期待する事だけです。命についてはこの場合「(生理・本能的な)快/不快」と読み替えればしっくりきます。つまり、快楽を与える事で引きつけ、不快を与えることで禁止し、地位を設定する事で競争と向上心を起こさせ、金を収集することを主たる目的とさせる…この3つだけであれば、殆どすべての人をそのシステムの構成者として組み入れる事が可能です。(むろん、それでもスナフキンのような世捨て人は出てくるわけですが、9割以上をカバーできれば上出来でしょう)
ここまで話せば前の教育制度改革案が特に地位に着目してシステムを成立させていることが分かるでしょう。最後に追加案として、ここで「金」に着目してシステムをさらに効率的で安定したものにできないか考察してみます。教育にはかなりの国家予算が費やされています。公立学校と私立学校の学費の差で考えれば単純に生徒一人につき年間100万ほどの費用がかかっていることになります。ところで私の提案した教育制度では優秀な生徒は昇級テストを受けてどんどん先のレベルへ進むことができます。このとき授業を受けずに済ませ、標準と設定された期間より短く済ませた生徒には、その期間分の授業料の何割かを生徒に返還するようにします。この制度は効果覿面でしょう。学生は努力することにより自分のペースで自由に先の勉強をすることができるばかりか、その報酬として金まで手に入れる事ができるのです。勉強すればするほど、好きなゲーム・マンガ・CDが買えるとなれば勉強にも俄然力が入ろうというものです。また、この教育制度では義務教育にあたる授業単位を取得してしまえば、大人並みの権利と義務が何歳であっても得られます。酒やタバコ、あるいは結婚については未成熟な肉体に害になる面があるため補足的な制限も必要でしょうが、投票権や運転免許の取得、18禁ポルノの視聴権などは充分な教養が身に付いていれば何歳で取得しても特に問題があるとは思えません。これらの権利を得られ、努力すれば早期に大人として認められる事実は勉強するモチベーションを高めてくれるでしょう。(むしろ投票権が18歳から与えられる事になったので他の成人を制限とする法をどうするか…などと議論している連中はただの馬鹿にしか見えません。そんな議論は箸・スプーン・フォークのどれが最も優れているか議論するようなものです。対象となる料理が具体的に決められていなければ、そんな議論はただの空論にしかならないのが当たり前です。こんな空虚な議論が効率と整合性だけを優先させた法体系の限界です)
授業料の何割かを返還すると言いましたが、残りの分(80%を積み立て、半分の期間で修了したとすれば100万*9年*0.8*0.5として考えて360万程になります)は積み立てられ、この成人に必要な単位を取得した時点以降、好きな時に引き出せるようにします。これで能力の高い国民に成人した瞬間から、国が一定額を投資するシステムが完成します。能力の高い人は資金を有効に使う方法を心得ている可能性が高いため、その投資は妥当なものになるでしょう。仮に単なる親からの独立資金や車の購入などにあてられたとしても、その原資は本来ならば無駄に学校に拘束し、生徒のやる気をなくさせるために使われていたわけで、それが生徒をやる気にさせ、優秀な国民を育てることに役立ったならそれだけでも大変な効率化がなされた事になります。
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