2008年7月10日 (木)

環境問題の難しさ

洞爺湖サミットが終わりました。

環境サミットとして注目された今回のサミットですが、地球温暖化問題については

「温室効果ガスの排出量を2050年に半減させることを世界共通の目標とする」

という誰にとってもどうでもいいような結論に終わりました。

こんなことではCO2排出量は一向に減らないでしょう。

環境問題の難しさは結局のところ、

「我々の国以外が我慢すれば問題は解決するのに、どうして我々が我慢しなければならないんだ」

というエゴの押し付け合いに尽きます。

誰しも豊かな暮らしはしたいわけで、率先して損な役回りを引き受ける人間など、少なくともアメリカが世界中に広めようとしている資本主義社会においては、その根本原理からしてあり得ない話です。

ここでいう根本原理とは、需要と供給の見えざる手によって経済社会は自動的に最適化されるため、個人より全体を優先させる倫理など必要なく、人は欲望のままに生きていればいいという市場原理の事です。

日本でもエコバック運動など、個人レベルのエコ運動らしきものが喧伝されてはいますが、私の家の近所にある西友では1年以上前からマイバッグを利用した場合、2円返金されるにもかかわらず、マイバッグを用意する人はいまだに30%以下と発表されています。コンビニなど、返金のシステムがない場所でマイバッグを用意している人は、いまだに自分以外では一回しか見た事がありません。結局のところ、口先では綺麗事を並べ立てながら、現実には環境などのためには、指一本すら動かしたくないというのが、資本主義社会で暮らす人々の本音なのです。基本手ぶらな男性はともかく、女性の場合は何らかのバッグは常に持っているはずで、この国の女は化粧品や生理用品は入れられてもマイバッグは入れられないのかと情けなくなります。

本来ならばこのような個人にとっては不快ですが、公共の利益のためにやらなければならない事やしてはならない事は、税金や法律という形で国や自治体が半ば強制的に個人の行動を制限することで解決しています。企業に対しても、公害など健康被害を防ぐために検査や査察を行い、必要ならば罰するなどといった行動は、企業が己の利益と欲望のままに行動する事を制限し、環境問題が起こらないようにする重要な機能です。

しかしこれが国家内部でなく、世界レベルになると話は違ってきます。国家を罰する上位の組織は存在しないため、そこには低レベルなエゴのぶつけ合いだけが存在するわけです。直接今回の話と関係はないですが、アメリカはイラクに対して結局は発見できなかった大量破壊兵器の保持を名目に、国連の決議を無視して勝手に戦争を始め、大量虐殺を行い、一方的な裁判で相手の元首を殺害したわけです。個人ならば無実の他人に言いがかりを付けて殺害したわけですから、懲役15年は下らないでしょうが、アメリカはいまだにイラクを占領し続け、平気な顔で自分達の都合ばかり話しているわけです。まったく我々は素晴らしく理性的で良い世界を作り上げたものですね。


とはいえこの問題に対し、古典SFの傑作「幼年期の終わり」のようにオーバーロードが現れるわけもなく、現実的な枠組みの中でなんとか解決するしかないでしょう。

その解決策として最近マスコミなどでもよく採り上げられるのがCO2排出量取引です。国ごとに割り当てられたCO2排出枠のうち、余ったものを他の国が買い取ることができるようにして、需要と供給の枠組みにCO2排出量を組み入れようという方針です。ただし、これについても問題は山積していると言えます。

まず世界全体がこの枠組みに参加しなければ意味がないわけですが、やはり足並みが揃わない事です。

特に排出量について途上国が意義を申し立てる(国民一人当たり排出量が現状は低いが、先進国並を基準にしろと言ってきたら結局世界全体では排出量が増える)事が考えられます。(一応いまのところ京都議定書の1990年を基準に考えているようですが)

排出権市場自体が、いまの原油などのように投機対象になった場合、原油などエネルギー価格が先進国でさらに高騰する(税金や価格に転嫁されて徴収される)事も考えられます。

しかもそれで本当に減るのか?というと甚だ疑問です。

このような手法をとった所で、CO2排出量を減らした事によって、直接満足を得られる人が誰もいないからです。

さらに進んで排出権などの取引を通じても世界全体で目標が達成できない事態となれば、守っても損するだけのこのような約束など、特に損をする先進国は簡単に反古にしてしまうでしょう。原子力発電などのCO2をほとんど排出しない電力供給手段が発明されたにも関わらずこれまで排出量は増え続けて来たわけで、大量の人口を抱える中国やインドのGDPが上がる半世紀後に排出量が半減するなど、とても現実的な目標とは思えないわけで、むしろこうなって当たり前だと考えられます。


それではやはりもう絶望なのでしょうか?

「半減させる事を世界共通の目標に」などと小学生か宗教団体の標語みたいな事を言ってなにかやった気になって、問題を次の世代に先送りしても自分が死ぬまではなんとか保つだろうと、ここでもエゴのままに行動するしかないのでしょうか。

ここで私から一つ提案があります。

世界全体で資源から算出されるCO2排出量に対して、一律に税金をかけることです。

石炭・ガソリン・木材など、やるきになれば税金をかける事は可能なはずです。

現在考えられてる削減排出量取引などといった、実際に削減されてるのかどうかわかったものではないものの調査のために調査会社を作り、その削減量を買い取るなどといった手間ばかりかかる馬鹿らしい仕組みよりは余程簡単でしょう。

そしてその税金で温暖化対策のための、国家の枠を超えた団体を創設し、積極的にCO2を吸収したり温暖化を防ぐ技術や設備投資を行う企業を支援し、その効果を判断し、税金を分配させるのです。要するに、CO2削減を目的とする専門企業の創設がこれにより可能となります。新エネルギーでも構いませんし、特殊な植林、宇宙開発など、CO2を削減する行為が利益に直接繋がるようになれば、現在の資本主義の理念の中でも地球温暖化対策は効率的に行われるようになるでしょう。分配の公平性の判断や利権に絡んだ問題は起きるでしょうが、それはあらゆる公共事業に常につきまとう必要悪です。当然、これらを最小限におさえるためのシステムや努力は必要ですが。

このような具体的な案がサミットで出ていれば、飢餓問題を話しながらキャビアを喰ってただけ等と、世界中のマスコミに揶揄されることもなかったでしょうに…

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2008年7月 1日 (火)

値上げラッシュ

最近生活必需品の値上げが相次いでいます。

暫定税率と絡めてよく話題にのぼるガソリンはもちろん、自民党批判によく利用されますが、暫定税率は以前と同じわけで、高騰の原因はどう考えても原油高です。暫定税率を議論するキッカケになるのは良い事ですが、短絡的に暫定税率をなくせばいいとか言っているマスコミや国民の馬鹿さ加減にはあきれ果てます電気代・ガス代、身近なパン・油など食料品などまでも。日本は海外の安い資源に頼り切っているため、資源高はあらゆる生産活動に悪影響を及ぼします。

中でも特に高騰がつづいている上に、殆どあらゆるものの値段に関わってくるのが原油です。半年ほど前、初めて1バレル100ドルを超えたとニュースになっていた原油がいまでは143ドルになっているのです。

この高騰の原因は中国などの発展による需要増などもむろん多少は関係しているでしょうが、ここまで急激な上昇の説明にはなりません。アメリカは否定してはいますが、投機資金が原油を押し上げている事は誰の目にも明らかです。

アメリカはサブプライムローン問題で破綻しかかっている自国の金融機関を生きながらえさせるために、ほとんど毎日数兆円規模の資金を市場に垂れ流しているのです。行き場を失った資金が安全な投資先を求め、比較的市場規模の小さい原油先物相場を押し上げているのはほぼ間違いありません。

これほど我々の生活に多大な影響を及ぼす原油先物相場が実際それらを必要としない投機的参加者の思惑で簡単に動いてしまう事も問題ですが、さらに問題なのがこのインフレ傾向に対し、(日本以外の)各国政府と中央銀行が利上げ傾向に向かっていることです。

利率の低い通貨よりは、利率の高い通貨の方がリスクが同じならば魅力的なため低金利な通貨は売られる傾向にあります。そしていま世界でもっとも低金利な通貨は、ほぼゼロ金利を継続している円です。今年三月の金融危機では円は安全な資金逃避先として、また円キャリー取引の解消もあいまって、他通貨を圧倒して上昇しました。このため対ドルでの資源高でも円高がそれを打ち消し、それほどのインパクトはなかったのです。

しかし現局面は世界的にインフレによる利上げが強く意識されているため、対ユーロはもちろん、対ドルでも円安が続いています。資源が高騰しているのに、円安では資源はさらに高くなります。結局この原因も低金利であり、日本の銀行を救うために行った低金利政策が長く続いたために、いま日本全体が、また値上げラッシュという被害を被っている事になっているのです。もしこの低金利がなければ今ごろドル円相場は60円程度になっているはずで、いま180円をつけるとも言われているガソリン価格も、本来ならば100円程度で済んでいるのです。

日本の大手銀行はこの銀行に有利な低金利の中でさらに日本を売って内需を枯渇させるような事ばかりやっていますが日本の銀行が国内向けにやっている事は、下請けの消費者金融を通してしぼりとるくらいのものもうそろそろ外需系大企業と銀行だけが儲かる低金利政策は見直し、せめて現在のアメリカ並の2%前後に金利を引き上げるべきときが来ていると言えるでしょう。金融機関に買い取らせている国債が暴落するため大手銀行がまた危険になるという話もありますが、どうせ金があってもロクな事に投資しない日本の銀行には少し痛い目を見せてやった方がいいのです。少なくともアメリカと同レベルの金利になれば現状みられる日本からの大量の資金流出はなくなります。日本国民の貯金から資金を吸い取る事で栄華を極めてきたアメリカと外需系企業がそのときどうなるのかは知りませんが、まあいい気味だと言えるでしょう。

金融無知な日本国民もいい加減この低金利と円安について、我々の財産と国益を損なっていると政府に対して怒るべき時が来ています。目先の暫定税率や消費税の問題など実は些末な事です。長期的にはこちらの方がよほど経済・社会に大きな影響を与える問題なのです。

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2008年6月12日 (木)

とんでも科学の世界

水だけで電気を作り出す、究極のエコ発電システムを開発したという会社があらわれました。

本日説明会があったそうで、記事になっています。

この話を最初に聞いたときには、「水を水より安定した物体に変化させるなんて、とうとう猫のゆりかごの世界がやってきたか!」と思ったものですが、上の記事の発電の仕組み画像をみると、とんでも科学だったようです。

水を入れて水を取り出すなんて永久機関じゃないかという話ではなく、化学反応は不安定な状態から安定した状態へしか起こらないわけで、どんな超触媒があっても、水という安定した物体を、酸素と水素という不安定な物体に、外部からのエネルギーなしに分解させるのは、川が低い方から高い方へ流れるのと同じくらいありえないわけです。 (水素と酸素の混合気体に火を近づけると爆発して水になるというのは理科の実験でやったはず。危ないので気球にも最も軽い気体の水素ガスではなく、燃えないヘリウムガスを使うのは周知の通り)

もう、まともな人は相手にしないと思いますが、なんらかの詐欺事件にでも発展するんでしょうか。今後はそちらに注目です。

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2008年5月19日 (月)

DP制作状況 2

修正作業はまだまだかかりそうです。

現在は大幅修正のついでに、バラバラになっていたバックグラウンド処理を見直し、スレッドプール型のコマンド処理に変更する作業を行っています。

以前のバージョンではスレッドを1フォルダ画面につき7つくらい生成していたため、ウインドウが増えると際限なくスレッドが生成されるという非常にまずい設計になっていたのですが、これでウインドウが増えても一定数以上のスレッド生成は行われなくなりました。

一般にスレッドプールにするとパフォーマンスが向上するという話もありますが、同期処理が頻繁に行われるため、こちらの効果はほとんど感じられませんでした。

とにかくDPはバックグラウンドで重い処理を行う事が多い&特定のバックグラウンド処理コマンドが止まるまでメイン処理を開始できない事が多いため、スレッドプールに送るコマンドにラインという属性を持たせ、そのライン毎に現在実行中のコマンドをSuspend/Resumeできるようにするなど、一般的なスレッドプールよりも複雑な仕様がどうしても必要になり、実装が困難でしたがなんとか動いているようです。

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2008年5月 1日 (木)

DP制作状況

最近DPについて触れてこなかったので、現在の制作状況についてここで報告します。

まずTreeMap表示を前面に出すのを止める方針に従い、Explorerの「大きなアイコン」「小さなアイコン」「並べて表示」「縮小版」とほぼ同じ表示形式を追加しました。これについては殆ど問題なく簡単に実装が済んだのですが、これに関連した修正に大きな問題があり、制作が難航しています。

TreeMapによる階層表示を標準としない以上、事前にドライブ内ファイルのフルビルドが必要な仕様はナンセンスだと言えます。そんなわけでノードキャッシュはフォルダ単位で細かくビルド可能にし、フルビルドが完了していなくても編集可能にしました。また、TreeMap表示の場合もビルドはユーザーが操作を行っていない間のみ動作させ、フルビルドを完了していなくても操作可能にしました。

この仕様変更により事前のフルビルドが必要というストレスがなくなったのは良いのですが、プログラム全体が設計・実装の初期段階からフルビルド状態での編集を前提としていたため、様々な部分で矛盾が発生し、バグの収拾がつかない状態に陥っています。

現状でも一応動いてはいるのですが、このままバグを潰していっても満足いく安定度は得られないという判断の下、設計を見直して大幅なプログラム書き換えを行う予定です。というわけでアップはその書き換え後、ある程度安定してからという事になりそうです。

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2008年4月18日 (金)

タレント知事に期待

橋下知事と市町村長の意見交換会で知事が涙した事がちょっと話題になっています。

タレント知事が選ばれる傾向が強い選挙制度や有権者に対しては少々批判的な私ですが、東国原知事や橋下知事に関してはマスコミを通じて真剣さが伝わってくるため、今のところ好印象を持っています。

しかし記事の内容やマスコミの話を聞いていると、知事がなぜ泣いたのか(私が思うに)全く的はずれな話しかしていないため、ここで涙の理由について私なりの解釈を。

人が泣くのは、自分の感情・欲求を論理的に妥当な行動で解決できないときです。

橋下知事は大阪を借金まみれにした張本人ではなく、これまでの知事や大阪の行政がやってきた財政収支を無視した散財、つまり有り体に言ってしまえば禁治産者共の後見人としてやってきただけの人です。

それなのに借金を作った張本人である痴呆共が知事をキミ扱いし、袋だたきにする。しかも知事は立場上それでも平静を保ち、対話姿勢を貫かなければならない。本来ならば一発どころか、顔の形がわからなくなるまで殴って当然の怒りをこらえた、それがあの涙なのでしょう。

知事本人が進んで選んだ道とはいえ、大人社会のつまらない常識が、ああいった市町村長=クズ共をつけ上がらせているんだと思うと、ああいう場面で言いたいことを言ってスカっとできるマンガの世界はいいなとつまらないことを妄想してしまいます。まあ、私はリアルでもそうしてきたわけですが…(汗

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2008年3月 8日 (土)

利他的社会の可能性

最近更新が止まってしまい、ご無沙汰しています。一月末くらいからちょっと新しい事を始めてみたのですがそちらが忙しくなり、集中していたために更新する余裕がありませんでした。この記事の内容がかなり重いというのも原因の1つですが。

教育制度改革案 補遺内でちらりと出てきた共産主義的理想を実現した興味深いシステムについて、ここで話してみたいと思います。

ここで言う共産主義的理想とは「能力に応じて働き、必要に応じて得る」という共産主義の基本理念の事を示します。近代資本主義では機会の平等を重視し、その結果は本人の能力と努力次第として保証しませんが、共産主義では結果の平等をこそ求めます。この理想の下では、どんなに働いても必要分しか利益が得られません。共産主義は人が自分の仕事に対する矜恃だけで自分の能力を最大限発揮して働く事を期待しているのです。しかし、一党独裁による腐敗を考慮に入れなくともこの社会体制がうまく回らない事は明らかです。人はそもそも怠け者に出来ている上に、努力してリスクを取っても、何もしないのと結果が同じだとすれば誰も努力などしなくなります。口先でどんな綺麗事を言おうとも、一部資産家を除いたこの世のほぼ全ての大人に共通する願望は楽して金を儲けたいこれに尽きます。

これに対して伽藍とバザールの論文でみられるようなLinuxをはじめとしたオープンソースプロジェクトの成功を挙げて反論する人もいますが、結局のところこれらソフトウェアにしても、それが別の仕事でどうしても必要な人によって書かれているだけの話で、結局は自分のためにやっているのです。(つまり動機の元を辿ればやはり資本主義価値観にたどり着くと言えます)その証拠にこれらプロジェクトが作成するソフトウェアはお世辞にもユーザーが使いやすいように考えられているとは言えず、マニュアルも専門家向けに書かれ、わかる人だけ使えばいいという場合が多いと言えます。実用一辺倒で、他人が使用しやすいように本来商品ならば力を入れるべき部分が手抜きされているわけです。GUIの高度なツールではオリジナルと言えるようなものは殆どなく、もしWindowsへの対抗という意地の悪い動機がなければ、LinuxはいまだにCUIしか持たないOSだったに違いありません。

しかし、「能力に応じて働き、必要に応じて得る」という理想に近い社会システムを1000年以上に渡って続けている社会があります。それはイスラム共同体です。イスラム教は世界で優に信者数10億人を超えるにも関わらず、我々日本人にとっては最もなじみのない文化の一つと言えるでしょう。9/11や自爆テロのイメージが先行し、漠然と暴力的な狂信集団のように思われる向きも多いと思われます。そこで以下、イスラム社会について基本的な部分から解説していきます。関連書籍を数冊読みかじっただけなので心許ないものですが。以下の内容はまさに手記・備忘録のようなものだと考えた方が良いでしょう。


イスラム教は7世紀はじめ、いまのサウジアラビアのメッカで商人を営んでいたムハンマドが突如宗教的衝動に駆られ、その後修行中に天使ガブリエルを通じて神(アッラー)からの啓示を受け、神の使徒として神の言葉を人々に伝えたのが始まりです。神の啓示はその後コーランとして書物にまとめられ、イスラム教はこのコーランを最高の教典としてアッラーを信仰する一神教です。

ムハンマドは自分が新・旧約聖書で語られるアブラハム、ノア、モーセ、キリストなどに連なる同一の神アッラーから預言を受けた使徒の最後の一人であり、アラビア語を話す人々も救ってやりたいとアッラーが情けをかけてくださったものだと主張します。キリスト教では通常、三位一体として神とキリスト(及び聖霊)を同一視しますが、イスラム教の解釈ではキリストも単なる預言者の一人であり、それを同一視するのは唯一絶対である神への冒涜だとして、この点ではキリスト教を批難します。

旧約聖書や新約聖書はある程度筋書きがあり、様々な映画などの題材にもなっているため、日本人にも結構なじみのあるエピソードが数多くあります(ノアの箱船・モーセの十戒・アダムとイヴ)が、コーランについては特に興味を持った人でなければ、その内容を知っている人は少ないでしょう。それもそのはず、コーランには物語的な内容は(旧約聖書からの引用やその解釈などを除くと)一切ありません。コーランに書かれている内容を乱暴に要約すると以下のようなものになります。

  • アッラーを唯一の神とし、我に帰依せよ
  • 偶像を崇拝するのはサタンの誘惑に負けた者。審判の時には地獄に落ちる事になる
  • アッラーとその使徒ムハンマドの言いつけ(コーラン)に従い、ムスリム(帰依者=イスラム教徒)としての義務を果たすものだけが審判の時に地獄を逃れ、楽園で永遠の命を享受できる。

コーランはムハンマドが最初の啓示を受けてから没するまでの約20年間の啓示をまとめたもので、日本語に翻訳して文庫本3冊分にもなるものですが、それらはすべて上記の内容を繰り返し補足・強化するものだと言えます。有名な一日五回(三回)の礼拝の義務や、豚を食べることの禁忌、メッカへの巡礼、断食月、利息の禁止、女性が人前で肌や顔を隠す…なども、このコーランに記されている内容が根拠となっています。

上記三項目だけを見るとこんな宗教を10億人以上もの人が信仰していて、現在も信者数は増え続け、20年後には人口的に世界最大の宗教になると言われているのが不思議に思えるかも知れません。それもそのはず、コーランの本質は書かれた論理的内容にあるのではなく、アラビア語で朗誦される非常に美しい韻を踏んだ、感情に直接訴えかける響きにあると言います。つまり私のようにアラビア語を理解せず、翻訳された文章を読んだだけではコーランの本質の1万分の1も理解してない事になるのでしょう。例えて言えば、どんな素晴らしい日本の詩や歌でも、英語に直訳し、棒読みされてしまったのではその素晴らしさが全く伝わらないというのと同じです。新・旧約聖書は散文詩・伝聞のような形式で、翻訳されても伝わる意味はそれほど変わらないのと比べると対照的です実際イスラム教では他言語に翻訳されたコーランはコーランとは認めず、参考程度に認めているそうです。

というわけでイスラム教の本質的な素晴らしさはアラビア語を理解しない私のような人間には理解不能なわけですが、まったく意味不明な文言が書かれているわけでもないため、翻訳であってもアラビア語圏の人々がコーランから受けている影響を推測することは可能です。以下はイスラム教徒がコーランからどのような影響をうけているのか、考察してみます。


とにかくコーランでは唯一神アッラーへの賛美が多いのが特色です。天地を創造し、人を粘土と精液から作り出し、おまえたち(人)の役に立つように作物・家畜・駱駝を用意したのもアッラーというように、コーランはアッラー自身がムハンマドに語った内容なので日本人的感覚から言えば親切の押し売り、自画自賛としか思えない発言が続きます。そしてそんな慈悲深く慈愛あまねきアッラーなのだからそのアッラーに常に感謝し、アッラーを称える言葉をことあるごとに唱えろと言います。そしてアッラーの遣わした使徒の忠告に従わなかった民族の末路を、旧約聖書にある有名な大洪水によるノアの民族抹殺やソドム・ゴモラ、その他多くの天罰を与えられた民族を例に出して脅します。コーランによればアッラーはそうあれと念じるだけでなんでもその通りになる方なので、自分で作った人間が自分の思い通りの人間にならなかったと言って抹殺するのは人間的な論理で考えればあまりにも身勝手に過ぎると思われますが、神の考えは人間の論理では全く計れない高みにあるため、このような反論は無意味です。

そして死んだ人間は仮に死んだだけであり、いままで死んだすべての人間は、審判の時には完全な肉体を持って復活するとあります。この審判の時に行われるのが、アッラーの教えに従い、生きている間に正しい行いをしたかどうかのチェックです。イスラム教の信者として正しい人間ならば天国へ、異教徒や無神論者、正しい行いを充分に行わなかったイスラム教徒は地獄へ堕とされます。完全な肉体とは仮の肉体我々が現世でいま持っている肉体とは違い、永遠に滅びることのない肉体です。まさか死ぬ直前のよぼよぼな肉体なわけはないので、人生で最も良いと思われる年齢の肉体が不老不死の状態で復活するのでしょう。そして天国では処女性を永遠に失わない美女があてがわれ、清水がこんこんと沸きだし砂漠地方で生まれた宗教なのでこれは恐ろしく贅沢な話なのです酒はいくら飲んでも良い気分になっても悪酔いすることはなく、うまい果物が食べ放題。一方の地獄では業火がうずまき、飲み水は煮えたぎった泥水、食べ物といえば悪魔の顔をした果物で、まるで溶けた銅を流し込まれたような味。そんな世界で死ぬことも出来ず、永遠に苦しむ事になるのです。

つまり、イスラム教の世界観での現世とは、審判の時が来たときから始まる本当の世界で天国に行くべき人間か、地獄に行くべき人間なのかをふるい分けるためだけに存在しているものなのです。現世で欲にとらわれ、アッラーの教えを無視して利己的に自分自身の利益だけを追求する行為は、審判の後に来る本当の世で損をする事になるというのです。ここがイスラム教の素晴らしいところで、この宗教の肝なので注意して記憶に留めてください。コーランでは、貧しい人への喜捨や孤児の保護、旅人への援助はアッラーへ貸し付けするようなもので、来世でアッラーはその借りを何倍にもして返してくれると言います。イスラム教圏で喜捨したとき「あなたにアッラーのご加護がありますように」と言われ、なんで私に感謝しないのかと不思議に思う事があるようですが、このコーランの論理を知っていれば何の不思議もありません。喜捨は自分の来世の事を考えてアッラーに貸し付けるためにやっていることで、他人から賞賛を受けたいとか感謝されたいなどという動機を持つ、一見利他的なようで裏に偽善的な衝動を持つ行動とは全く無関係の純粋な利己的行為なのです。だから喜捨される側も別に引け目を感じることはなく、感謝すべき相手はこのような世界を創って下さったアッラーという事になります。コーランには他人の見えるところで喜捨することもむろん良いことですが、他人の預かり知らないところでする喜捨こそアッラーはよくご覧になっていて、そんな人こそ楽園に入れて下さると書かれています。具体的には、すべての人に専属の監視用天使が首の付け根の辺りに居て、すべての行動はもちろん、考えている事まですべて見通し、天上にある帳簿に書き込まれ、来るべき審判の日にはその帳簿を元にすべての善行と悪行がアッラーにより語り聞かされるといいます。当然、反論の余地は全くなく、その時にいくら反省し、現世での行為を後悔してももう遅く、地獄へ行くべき人は自分でも納得して地獄へ行くしかありません。

とはいえ、熱心な信仰対象を持たないわれわれ多くの日本人にとっては、このような科学的根拠のない空想の世界を本当に信じている人はカルト教信者、良くてただの馬鹿にか思えません。しかし思いだしてください。コーランは歌のように感動的なリズムを持っていて、小さな子供の頃から一日5度の礼拝時に何度も何度も繰り返し聞かされるものなのです。このような世界観を日常的に焼き付けられた人間は科学的な論理性を無視して感情的にコーランで語られる世界観を受け入れるようになるものなのです。だから、イスラム教圏の人にとってしてみればこの世界観は、我々の社会で例えれば不老不死の技術が実際に確立され、生きている間に世界的な功労があった者にのみ、望む年齢の完全に望みの容姿の肉体に変身して不老不死化手術が行われることになったというようなくらい現実的な話に感じられると思って良いでしょう。

現代の日本では国旗・国歌を歌うことすら否定され、戦争・軍国主義反対の御旗の元に、ナショナリズムの欠片すら認められないような風潮ですが、それとは正反対であることがわかります。私もアナーキストに近い立場なので特にそれらが一方的に悪いと言いたくはありませんが、日本で他者との関係が希薄になり、出生率が減り、変な問題が連続するのは、ナショナリズム不足による社会的アノミーが原因だとするのが自然でしょう。公衆道徳というものはこういった超越的な存在を無条件に信じる土壌がなければそもそも存在し得ないのです。

「人を殺すのがなぜ悪いのか」とイスラム教徒に問えば、同胞を理由もなく殺めることはコーランで禁じられているからだ、と即座に答えが返って来るはずです。同じ問いを日本人にした場合、日本人ならば誰でも納得できるような明確な返答が、いまの日本で出来る人がいるでしょうか?せいぜい、法律で罰せられるからだとか、自分が殺されたくはないから他人も殺さないとか、生物的に同類を殺すのはおかしいとか、社会的な効率を考えれば…などといった返答をするくらいでしょうが、じゃあ自分が死ぬ気でやるのならいいのか、などと反論されればもう返答に窮してしまいます。これが論理というものの限界です。

イスラム教徒は強い共同体連帯意識を持ち、その連帯感は、毎日の礼拝や、苦しい断食を共に乗り越えることや、メッカへの巡礼の旅の後に感動的な一体感を持つ事で何度も何度も繰り返し焼き付けられます。現代の日本に、そのような日本全体で共有しているような行動が1つでもあるでしょうか?せいぜいあるのは亀田兄弟や朝青龍のような悪役を作り出し、低俗な嫌悪感を煽って共感を得ようとすることくらいでしょう。この社会的行為はいじめと全く同じで、何度も同じ事を言っているように思いますが、本当に日本のマスコミのレベルの低さには呆れかえります。

共同体連帯意識の欠如は利己的行為の暴走を生み、姉歯の構造計算書偽装問題や最近繰り返し発生する食品偽装発覚なども、根本的にはこれらが原因だと言えるでしょう。バレなければ得をするんだから、バレない以上得な行為をするのは人として当たり前の事です。それをバレる行為にするため、いくら検査を厳重にしようとしても、それらには効率から考えて自ずと限界が発生します。論理的で利己的な行為のみを重視した世界は、この個々の利己的行為によって、全体としては非常に非効率な世界になります。狭い共同体内で暮らしていた昔の素朴な日本人の場合、彼らに迷惑をかけたくないという意識がある程度利己的行為のブレーキ役・道徳観念として働いていたのでしょうが、いまの日本にそれは期待できません。いつでもアッラーに監視されていて、その行為の善し悪しが来世で自分の身に降りかかってくる熱心なイスラム教徒では、このような行為は考えられません。コーランでは秤は正確にせよという文言で、不正に利益を得る行為を禁じています。ハンドボールで中東の審判の不正が問題になっていましたが、イスラム教圏の国に対して抗議するのであれば、このコーランの項目を持ち出し、「お前達の行為に対してはアッラーが必ず来世で罰を下されるだろう」と言ってやるのが一番効果があるのです。


とりあえず日本に比べて良い面を話してみましたが、むろん悪い面も多々あります。聖戦の名の元に異教徒を殺す事はコーランでは善行とされ、聖戦で死ねば無条件で楽園へ行けると書かれているなど、危険な面があるのも確かです。ただし、アッラーは慈悲深い神のため、異教徒であっても改心する可能性があるとして、直ちに殺すようには言っていません。イスラム教徒がイスラム教の教えを守るのを妨げようとしたり、宗教を理由に差別したりした場合に限り、その敵を殺す行為は聖戦になります。しかし、それら細々した問題をあげつらってもしょうがないので根本的な問題を1つだけ挙げるとすれば、それはコーランが1000年以上前に書かれたもので、ムハンマドはその後コーランを変更する手段について何一つ言及しなかったばかりか、むしろムハンマド以降に預言者はあらわれず、コーランがアッラーからアラビア人に対しての最後のお告げだと明言している事にあります。世の中は進歩し、その価値観・倫理観は科学技術の進歩やグローバル化により変化が求められています。女性の人権問題を考えたとき、コーランは明らかに男性優位の当時の考え方に沿った行動を強制しているため世界の常識と相容れません。商売で利息を取ることも禁じているため、銀行なども存在できず、大規模な市場経済の発展が阻害されています。ただし、シャリア指数銘柄(イスラム教圏向けに、銀行、酒、豚、ギャンブル系の銘柄等を除いたもの)等が最近作られた事でわかるように、株式投資は大丈夫という理屈のようです。原油高騰でオイルマネーが余りにも膨大になり、利息で儲けるのは悪とするイスラム教であっても他に使い途がないので投資するしかないのでしょう。コーランの解釈などのために数学・論理学などは大いに発展したようですが、偶像崇拝禁止や女性が人前で着飾ることを禁止したために芸術の発展も阻害されたでしょうし、進化論などもコーランの記述と相反するため受け入れられないでしょう。科学的な発展がこのような制限により阻害されることは間違いありません。こういった硬直的で一枚岩な制度が持つ悪い面を一身に持っているのがコーランを元にしたイスラム教とそれを法律とするイスラム教圏国だと言えます。ただし、同じイスラム教でもコーランをそのまま法とするスンニ派と違い、シーア派ではムハンマド以降も神の啓示は続くと解釈し、預言者が現存すると考えます。また一部ではムハンマドと同様な精神的修行を行うことで、直接アッラーから啓示を頂ける天上のコーランの元になった原本の精神を解読できると考える人もいるようです。こういう立場を取る人によれば、コーランに書かれたような表面的な礼拝などの義務を守ることで天国に行けるなどと考えるのはそれこそ堕落だと言えるようです。そういえば仏教・キリスト教なども最初は個人救済の教えだったものが、政治・金儲けに利用されるようになり、いつの間にか本質が忘れ去られていたという事が言えます。とはいえこのような人たちはむしろ異質な立場で、イスラム社会の法であるコーランを修正するほどの力は持ち得ようもありません。これらは一般的傾向として言えるだけの話で、現在ではイスラム教圏の国であっても西洋化を受け入れている国の方が多いくらいのようです。西洋化の度合いはメッカから離れるほど強いので、巡礼などの行為が宗教的に大きな意義を持つことの証左になっていると言えます。

まとめとして、コーランの教えは共産主義的な利他的行為を来世による公平な裁きという架空の論理を持ち出すことで利己的行為に置き換える事に成功しています。まさに私が人の行動をコントロールするのに利用できる3つの欲望とする「命、地位、金」これらすべてを利用して人の行動をコントロールしているわけで、見事としか言いようがありません。ただし、そのために失った自由な発展性の代償は大きいと言えます。逆に、これさえ克服した社会システムが考案されれば、その社会システムは多くの人を救うことになるかもしれません。

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2008年2月14日 (木)

教育制度改革案 補遺

教育制度改革案のコメントで薦められた選択理論、それを学校教育に応用する方法を解説したクォリティ・スクール 生徒に人間性を 読了しました。

端的に言ってしまうと事前にネットから得た断片的な情報から想像した通りの内容で、コメント欄で「おそらく夢物語としか思えません」と書いたとおりの感想しか出てきません。当然、この本を読んだことによって私の教育制度改革案の記事を変更する必要も全く感じませんでした。

以下、簡単にクォリティ・スクールの内容を紹介しながら、その理由を述べたいと思います。


クォリティ・スクールで繰り返し述べられているのは生徒の行動を強制しないことです。口うるさい親や教師に勉強しなさいと言われれば反抗期まっただ中の学生の場合、特に勉強が嫌いでなくても嫌いになるのは当たり前の事で、これに関しては私も全く同意見です。 (前回の改革案冒頭で体罰について語っていたのは古い教育体制を維持するにはそれが必要であったという事であって、私の新しく提案した方法ではそんなものは全く必要ないことが少し考えればわかるでしょう。そもそも学生に強制する事がありませんから)

しかし、学校である以上、生徒に勉強させないと存在の意味がありません。そこでクォリティ・スクールは強制ではなく、生徒にどのようにすればよいか提案してもらい、納得してもらう という手法を用いれば良いと主張します。そして、勉強を好きになってもらうために(なぜかクォリティ・スクール内ではこの好きであることに上質(=クォリティ)世界という言葉を使います)教師が生徒に命令することを禁じ、生徒と同じ目線で語り合える友達になることを要求します。教師はその勉強が生徒の将来にとって如何に役に立ち、魅力的かを説明します。その後生徒を少数のグループに分け、学習内容について話し合いや共同での解決の場を持たせますが、教師は手伝いをする立場に留め、その目標に対し明確な正解は与えません。人は生得的に良いものを判断する能力を持っている(この良いものもクォリティ・スクールでは上質と呼びます。はっきり言わせてもらえば、2つの異なる重要な概念に同じ単語を使うのは頭悪すぎです)と考え、その達成についてもある程度生徒に判断させます。このようにすることでこの小グループは野球のチームのようになり、その中で自分が役割を持つことが欲求充足となり、勉強をその生徒の上質世界(勉強を好きになる)事に繋がると主張します。

本の中で具体的な例として代数を教える場面が挙げられています。

「リード・マネージメントする教師は、初めに代数について説明し、代数を学ぶ理由は何か、実生活の中でどのように役立つかを説明する。もしビデオテープでもあれば、いろいろな違った文化の中で成功している人が、生活の中で代数をどう役立てているか、なぜ学習する価値があるかを、生徒に見てもらう。リード・マネジメントをする教師は、生徒に、だれでも努力さえすれば代数を立派に学ぶことができると話す。

 生徒の質問に直ちに答えた後で、教師は、共同学習の小グループ(とても欲求充足のできる教え方)で、お互いに助け合いながら勉強すると説明する。教師は、各グループに少なくとも一人の有能な生徒をリーダーとしてつけ、彼らがグループのメンバーに問題解決の技術を教えられるようにする。ただ問題を解くだけでなく、みんなが代数を理解することがグループの目的である、と教師は説明する。学校は、教師全員が共同学習をうまく使えるように訓練する。

 教師は、テストの時期を生徒に決めさせる。本番のテストの前にはいつでも模擬テストがあって、その結果に基づいて本番のテストは作られる。テストでよくやった生徒は、さらに先に進む。よくできなかった生徒は、完全な理解をするまでそのテストに出た問題領域に取り組む機会が与えられる。理解することとクォリティの維持が大切なのだ。時間は問題ではない。クォリティ・スクールの理想はこうだ……やる気のある生徒は、学ぶのに必要な時間がないと心配する必要はない。つまり、これまで学んだことをよく理解したことを示すまでは、だれも、新しい領域に進まなくてよいのだ。」( 「クォリティ・スクール」  ウィリアム・グラッサー 著 柿谷正期 訳 ISBN4-377-40998-0)

こうやって聞いてみると良いことばかりのようです。
しかし、本当にそうでしょうか?次は、この手法の問題点を考えてみたいと思います。


まず、教師は代数がどのように役に立つかを生徒に教えるとありますが、プログラマや数学を用いる学問の学者ならばともかく、フットボール選手を目指す生徒に対し、代数を勉強させる納得のいく理由を説明できるとは思えません。 (代数を勉強することはプログラマのように直接それを使う以外の人にとっても、抽象的な概念を頭の中で操る訓練として、日常的にも非常に有用なものですが、そんな説得が生徒に通じるとはとても思えません)結局、納得できなかった生徒は無用な勉強をしなければならない不合理について、さらに確信を深めることになるでしょう。

次に小グループで助け合いながら勉強し、グループ内のすべての生徒が課題について理解するまで続けるとありますが、これはグループ内で平均的な能力を持った平凡な生徒にとっては確かに心地よい手法でしょう。しかし、飛び抜けて出来る生徒にとってはどうでしょうか?教えても理解しない周囲の仲間にいら立ち、自分はこんなところにいて時間を無駄にしているとしか感じないでしょう。特に、飛び抜けて能力の低い生徒にとってはこのグループ制は地獄です。みんなはすでに理解しているのに自分だけは理解できずのけ者になり、無能の烙印を押され、足手まといと蔑まれ、自分はこの学校に必要ない、むしろいない方がマシな存在だと思うようになるでしょう。これがキッカケでいじめが始まるのも時間の問題です。

さらに上質の概念を支える、人は生得的に良いものを判断する能力を持っているので、生徒のグループに任せてもうまくいくという前提も簡単にいくらでも反例が思い浮かびます。ピカソの絵画の芸術的な価値を理解できる生徒がいるでしょうか?古くは地動説から、哲学、相対性理論、不確定性原理など、無知な人の直感ほど、真理から目を逸らせ、危険で信頼できないものはないという事など少し考えれば解ることです。これらの価値を保証するには、その分野についてレベルの高い人だけの権威的な集団を社会が保護し、無知蒙昧な大衆の批判を受けないようにしなければなりません。レベルの低い大衆は圧倒的多数なため、それらが正しい学問であっても、その価値を理解しない人々に軽視され有用性を認められず、自然のままでは社会的に抹殺されてしまうのです。ただでさえ現代社会は市場経済の力が強くなりすぎ、沢山の人にものを売るためにレベルの低い大衆に受けるものが礼賛される傾向が強く、エンターテイメント性の高いものはともかく、アカデミックなものは特にレベルの高いものほど売れないため軽視されていく傾向にあります。これら理解されにくい学問を保護し、その価値を生徒に理解させるためには、レベルの低い生徒側に迎合するような上質を信頼する教育方針を採るべきではありません


本の中ではグループ内で出来る生徒と出来ない生徒をできるだけ早期に見分け、出来る生徒は代数を1年で習得するコースに、出来ない生徒は2年かけてゆっくり…という風に補足されているため、私が指摘したような問題が実際頻繁に発生しているのだろうと想像されます。これほど明確に問題が発生しているのに何故その考えを改めようとしないのでしょうか?それはこの本の著者がコミュニタリアン(共同体主義者)である事が原因だと感じられます。上質の概念など、グループ・共同体で考えれば何でもうまくいくと考える傾向にもそれが現れています。とにかく、共同体で社会的承認を得られる事が人間にとって最も幸せであるという自分の盲信を証明したくてしたくてしょうがないのです。

そのためにはたとえどんな問題が起きてもそれは教師が未熟なせいだったり、生徒の出来が悪かったりしたせいであって、自分の考えた共同体主義的システムに欠陥があるためだという事を認めるわけにはいかないのです。クォリティ・スクールの実現のためには、生徒に勉強を強制せず、自分から進んで勉強しようと思わせるような面白い授業、面白く生徒に好かれる個性を持った教師を育てる必要があり、その訓練が最も困難だという事は著者自身も認めています。しかし、どう考えてもそんな教師を大量に用意できる効果的な方法があるとは思えません。ただでさえ教師はその分野についてそれなりに高い能力を持つ事が要求されます。そして一度採用されたら、あなたは生徒に好かれる性格を持っていないなどという理由で(私立学校ならともかく)解雇するなど考えられないことです。性格を変えろという要求は、他人に要求する事柄の中でも、およそ最も困難でその人の人格・尊厳を無視した発言と言えるでしょう。こんな事を言い出す著者が心理学者であるという事実に、むしろ驚愕させられるばかりです。

私が何の根拠もなくこんな事を言っているように思われるかもしれませんが、根拠はこの中にすでにあります。最初のコメント内でこのリンク先の文章を見たとき、失笑しました。そのため、発言者がクォリティ・スクールについて肯定的な意見を持っていて、それを知るように私に薦めているとはとても思えず、むしろ「こんなこと言ってる人たちもいますよ」という発言は「こんな(あなたと同じくらい馬鹿なことを)言っている人たちもいますよ」と揶揄されているのだろうと理解したわけです。(そのため最初の発言では本を読もうとはしなかった)その根拠は説明するまでもないとは思いますが一応説明しておくと、「クォリティ・スクールと認められるにはGQSという基準をクリアする必要がある」という部分です。少なくとも200校以上がクォリティ・スクールを目指していて、10校しか基準に満たないって…これではクォリティ・スクールの理論が、現実には殆ど不可能な要求をしていることを自ら認めているようなものです。


なぜこのような馬鹿げた事が起きるのでしょうか。それには確かに前述したとおり著者のコミュニタリアニズムへの傾倒が1つに考えられますが、少し視点を変えると著者は他人(特に教師)に自分と同じような能力と思想的傾向を要求していることが見えてきます。要するにみんなが自分と同じように考え、自分と同じように行動し、自分と同じような能力を持てば、世の中よくなるという思想です。世の中が自分と同じような人ばかりになれば世界は平和になるというのは一神教・カルト宗教などを信じる視野狭窄な集団によく見られる特徴です。実際すべての人が同じ宗教を信じ、同じ言葉を話し、同じ価値観を持てば、大抵の宗教で世界は平和になるでしょうが、そんな事は不可能です。これほど他者を無視した考え方もないのに、独善的な価値観を持った人々にはそれが理解できません。なんにせよこの本の著者のような人物の甘言にコロリとダマされて信じるような人は、カルト宗教やアムウェイのようなマルチ商法にはまらないように気をつけた方が良いでしょう。

しかし人はさまざまです。コミュニタリアニズムの考え方が絶対に受け入れられない人も半数くらいは存在するでしょう。著者のように行動することに価値を見出せない人も半数はいるでしょうし、著者のようなコミュニケーション能力を持たない人も、どう少なく見積もっても半数以上はいるでしょう。そうすると単純計算で著者がシステムで想定しているような人は1/2の三乗で全体の1/8しか居ないことになります。

結論として、社会全体に適用するシステムを考える場合、そのシステムを構成する人に対しては何らイデオロギー的なものを要求してはならず、特定の職業に要求する能力についても、試験などで客観的に判断できるもの以外は求めてはならないことがわかります。この前提を踏まえていないシステムは必ず自壊します。(例えば共産主義は人に利己心を捨て去り、尊厳だけで行動する事を要求します。圧倒的多数の通常人は利己的にしか行動しないため、共産主義は早晩その理想とは全くかけ離れたものとなり、瓦解します。ただ、長期間これに似たシステムを維持し成功させた例もありますが、それにはあるトリックが必要です。この興味深いシステムについては少し長くなるのでまた別の記事で述べます)


社会全体に適用するシステムで利用し、また要求できるのは、以前にも少し触れましたが「命、地位、金」この3つへの服従を期待する事だけです。命についてはこの場合「(生理・本能的な)快/不快」と読み替えればしっくりきます。つまり、快楽を与える事で引きつけ、不快を与えることで禁止し、地位を設定する事で競争と向上心を起こさせ、金を収集することを主たる目的とさせる…この3つだけであれば、殆どすべての人をそのシステムの構成者として組み入れる事が可能です。(むろん、それでもスナフキンのような世捨て人は出てくるわけですが、9割以上をカバーできれば上出来でしょう)

ここまで話せば前の教育制度改革案が特に地位に着目してシステムを成立させていることが分かるでしょう。最後に追加案として、ここで「金」に着目してシステムをさらに効率的で安定したものにできないか考察してみます。教育にはかなりの国家予算が費やされています。公立学校と私立学校の学費の差で考えれば単純に生徒一人につき年間100万ほどの費用がかかっていることになります。ところで私の提案した教育制度では優秀な生徒は昇級テストを受けてどんどん先のレベルへ進むことができます。このとき授業を受けずに済ませ、標準と設定された期間より短く済ませた生徒には、その期間分の授業料の何割かを生徒に返還するようにします。この制度は効果覿面でしょう。学生は努力することにより自分のペースで自由に先の勉強をすることができるばかりか、その報酬として金まで手に入れる事ができるのです。勉強すればするほど、好きなゲーム・マンガ・CDが買えるとなれば勉強にも俄然力が入ろうというものです。また、この教育制度では義務教育にあたる授業単位を取得してしまえば、大人並みの権利と義務が何歳であっても得られます。酒やタバコ、あるいは結婚については未成熟な肉体に害になる面があるため補足的な制限も必要でしょうが、投票権や運転免許の取得、18禁ポルノの視聴権などは充分な教養が身に付いていれば何歳で取得しても特に問題があるとは思えません。これらの権利を得られ、努力すれば早期に大人として認められる事実は勉強するモチベーションを高めてくれるでしょう。(むしろ投票権が18歳から与えられる事になったので他の成人を制限とする法をどうするか…などと議論している連中はただの馬鹿にしか見えません。そんな議論は箸・スプーン・フォークのどれが最も優れているか議論するようなものです。対象となる料理が具体的に決められていなければ、そんな議論はただの空論にしかならないのが当たり前です。こんな空虚な議論が効率と整合性だけを優先させた法体系の限界です)

授業料の何割かを返還すると言いましたが、残りの分(80%を積み立て、半分の期間で修了したとすれば100万*9年*0.8*0.5として考えて360万程になります)は積み立てられ、この成人に必要な単位を取得した時点以降、好きな時に引き出せるようにします。これで能力の高い国民に成人した瞬間から、国が一定額を投資するシステムが完成します。能力の高い人は資金を有効に使う方法を心得ている可能性が高いため、その投資は妥当なものになるでしょう。仮に単なる親からの独立資金や車の購入などにあてられたとしても、その原資は本来ならば無駄に学校に拘束し、生徒のやる気をなくさせるために使われていたわけで、それが生徒をやる気にさせ、優秀な国民を育てることに役立ったならそれだけでも大変な効率化がなされた事になります。

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2008年2月 9日 (土)

DP最新版0.908bをアップ

DrivePortal最新版を公式サイトにアップしました。

殆ど機能的な追加はないのですが、これから根幹部分に関わる大幅な修正を開始するため、今後長期間アップできない可能性が大きく、現状の最新版をアップしておきました。まあブランチを作ればいいのですが、そこまでするような状況でもないかな…と。

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2008年2月 8日 (金)

デイトレーダーに土下座しろ

また日本官僚のとんでもない馬鹿さ加減を証明してくれる人があらわれました。

経済産業省の事務次官ということは、日本の経済政策を担当する省の中で最高の頭脳を持つはずの官僚です。それがこのレベルですから、もう欧米はおろか、中進国・後進国にすらバカにされて当然というものです。

株式市場で最も流動性を高め、プレイヤーとして活躍して金を落としてくれるのがデイトレーダーです。この北畑という事務次官の発言は、例えて言うならば野球を観戦しに来てくれるお客さんに向かって、球団のオーナーが 「野球など観に来て人生の時間を無駄に使う奴は馬鹿」というのと同じことです。

本人は「一部だけ取り上げられるのは本意ではない」と言っていますが、市場を耕し、証券会社に手数料を多く払い、活性化させ、魅力的にしてくれるデイトレーダーをけなす言葉を吐くなど、その立場から考えると口が裂けても言えないはずです。

こんなだから日本市場がどんどん縮小し株価は下落、企業の資金繰りも悪化し、年金積立金も縮小。株をやらない庶民には関係ない事だと思っているかもしれませんが、とんもない。金が全くまわらず、庶民の生活がどんどん苦しくなっているのはこんなクズが官僚のトップに居座っているからです。

大臣もこんな奴はとっとと首にしろ!

この事務次官の部下は昔インサイダー取引で処罰を受けたことがあるとか。裏情報を得て安全確実に儲けられる立場からすれば、素人が公開されている情報だけを頼りに大きなリスクを背負って株取引しているのを見ると、確かに馬鹿だと思えるのかもしれません。さすがノーパンしゃぶしゃぶの常連は考えることもひと味違いますね。

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